サクラノ刻を終えて

 

めちゃくそ待ったゲームですが、25~30時間くらいで終わってしまいました。簡単に感想を書こうと思います。ネタバレを含むことを承知の上でお進みください。

 

 

これは続編でも完結編でもない

前作「サクラノ詩」を草薙直哉と草薙健一郎の父子を描いたものとすれば、本作「サクラノ刻」は草薙直哉と夏目圭のライバル関係を描いています。というかこれは前作で描き切る類のもので、補完的な物語というべきでしょう。

草薙直哉と夏目圭を描き切ることができなかった。あるいは、描いたはずだけれど、誰もがそれを理解出来るとも分からない。とても分かりやすくこの二人を物語にする必要をメーカーは感じたのだろうなぁと。

結果的に前作の終わりに見せられた本作へ向けたアオリが空振っていて、それはライターも理解していて、繰り返し、繰り返し、ヒロインらの立ち上がった理由を説明しています。

アオリというのは御桜稟がラスボス化したことを指していて、「次回作で如何にこれを倒すのか」を軸とされるであろう、という期待でした。しかしそれは夏目圭の神格化によって不要のものとされ、前作のメインヒロインはただの舞台装置となってしまった。

しかし物語の軸はぶれていない。アオリが空振っただけなのです。この「タッチ」的物語において、新田がラスボスであるはずが、やっぱりラスボスは和也だった。そりゃそうでしょう。

 

ミサゴとツインテールの少女

続編という名の、壮大な「夏目圭ルート」となった本作。それでも大きな不満が生じないのは本間心鈴というヒロインを投じたことでしょう。「これだけ属性詰め込んで魅力的なのだから文句ないだろ!」

これは多分に計算されたもので、属性てんこ盛りの素晴らしさを本編でも触れています。その上で舞台装置として最大限、最小限に働きました。ギャルゲー要素を一手に引き受けた上で、シリアス展開では必要十分に抑える。この構成力は意味わからないレベルで、「物語のためのキャラクター」に対してこれほど不満がないのも珍しい。

 

最高の舞台装置は若々しいバツイチ子持ち

夏目圭のバックボーンを描き切るためには中村時代を描く必要があります。人を描くならば親を描かねばならず、その親子関係を描かなければならない。

夏目圭はその点で非常に複雑ですが、多角的に捉えられるというメリットでもあります。実父中村章一、養母中村紗希、実母恩田霧乃。これに半姉鳥谷真琴、半妹恩田寧、伯母中村麗華、叔父恩田放哉、祖父宮崎破戒、従妹本間心鈴が付随します。

面白いのは、本作で最も大きなファクターとして据えられたのが中村麗華であること。これは「どうしても草薙パワーが過ぎる。中和するには中村が必要だ」という必要から生じたキャラクターです。

草薙直哉と夏目圭の関係を描きすぎると「なんで圭は死ななくてはならなかったんだ」という疑問が強くなります。草薙直哉はたくさんの人を救ってきた幸福な王子。圭も救えなきゃ嘘でしょう。

そこで草薙と中村のパワーバランスという概念が生じました。中村という死と近しいものに通ずるにつれて、死へ近づく。草薙に通ずるにつれて生へ近づく。そういうシステム。

草薙親子に匹敵する怪物を、純正の中村から作り上げなくてはならない。この理念がミセスアンタッチャブル、中村麗華を生んだのです。彼女の理念は夏目圭を死へ引き寄せ、彼女の娘は死の引き金となりました。

この母娘は夏目圭と草薙直哉の対比に際しても役立っていて、前作に不足していた「画家としての夏目圭」の補完すらしています。終盤における草薙直哉with小悪党のコミカルさを演出した中村章一も素晴らしかったのですが、最終盤における中村麗華の在り方は本当に素晴らしかった。

夏目藍へ堂々と相対し、草薙直哉の動向に口出しをする。これを行うに関して中村麗華の人間性と立ち位置は絶妙でした。影のヒロインに足りる働きであったと思います。

 

猫と羽の少女

影のヒロインの娘はなぜ、夏目圭の死に関わったのか。

死する前、圭は中村時代へ戻ったかのように芸術へ立ち向かいました。一方で、彼は草薙健一郎の薫陶を受けた人物でもあります。故に、彼は芸術の隣で死んではいけません。

どのように死ぬべきか。圭はなぜ死んだのか。草薙の隣にあって、草薙の薫陶を受けたならば、草薙の様に死ぬしかあるまい。人を救って死ぬのだ。

彼は物理的に本間心鈴の命を救い、末期の際にて彼女の精神を救済しました。自分が健一郎に救われた様に、自分もまた師匠として弟子を救うのです。

親しい者の救済により死したことはなくとも、草薙親子はそれを恐れることがありません。彼もまた恐れることはなかったし、救済を死と引き換えにするつもりもありませんでした。ちょっと、草薙直哉を救っている途中であったから、オーバーワークだったのです。

これはわりかし後付け的で、前作時点では「かくあれかし」と死んでいます。夏目圭の死とはただの悲劇であり、それ以上の物語性はなかったのです。

中村麗華と本間心鈴という人物は、夏目圭の死を盛り上げるために設置されています。それがこれほど踊るのですから、物語というのはやはり面白い。

 

あるいは最低の茶番を

夏目圭は意味ある死を遂げたのだ、その死は草薙直哉へ捧げられていないのだ。それをきちんと説明することが「サクラノ刻」という作品の全てでした。

それ以降は茶番です。茶番を茶番としてきちんと描き、最後はご都合主義のスーパーハッピーエンドに終わらせています。夏目藍のビターエンド発言や、フリッドマンの茶番発言などはあだち充的メタと考えられ、それを受けて「スーパーハッピーエンド」と表現します。

完全なメタ発言は長山香奈へ対して草薙直哉がしており、「そんな設定はじめて聞きました!」に「それは勉強不足だな。前作からずっとそうだ」と返しています。メタの多さはⅤを過ぎてからですから、ここからは茶番劇として描かれているのでしょう。

ドラッグオンドラグーン2的な何かであり、夏目圭の最期を見届けたら「サクラノ刻」のプレイを終えても問題がありません。あれで完結です。緊縛された藍がどうなるのかを見たい人だけが、その先に進むべきでしょう。そういう低俗な興味で読み進めるべき物語なのです。

決して批難しているわけではありません。茶番を茶番として描かず、何かしらの意味を持たせようとする方が不誠実なのですから。

 

エンディングの在り処

ここで問題となるのは「何を以てエンディングとするのか」です。

この物語のエンディングは前作の最後で良いと思います。本作は補足的ファンディスクであり、続編や完結編ではありません。

「この長い期間を待たせた上でファンディスクはやべぇぞ」ということで、「夏目圭ルート+グランドエンド的茶番劇」を続編や完結編といったもので販売しています。きちんと形にはなっていますが、物語としての進捗は何もありませんでした。

全ては各々の見方次第であるわけですが、「サクラノ刻」を終えてみるとですね、「サクラノ詩」という作品がどれほど美しく仕舞われたのかを考えてしまいます。

ご都合主義のスーパーハッピーエンドを見せられると、どうしても、あの噛みしめるビターエンドが美しく見えて仕方がない。懐古主義のトラップでしょうか。

 

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